拾ってくれた神さま


高校生のころ・・・・母と叔母が小学校の音楽の先生だったこともあって、音楽の道に憧れた私でした。でも、親に反対され、大学は法学部に進みまし た。 一年生のときは、なにもかも新鮮で、受験勉強の反動もあって、飲み会に行ったり部活をしたりしてのびのびと遊んでいたけれど、ふと、やっぱり自分のやりた いことは音楽だった・・・と思い、音大を受験しよう!と決めました。法学部は卒業しなさい、と言われ、それでは4年生の冬に受験しよう、と、バイトして、 レッスンして・・・という毎日。レッスン代は自分で出しなさい、どんなにたいへんか分かるから、と言われて。そして、ずっと頑張ってきたのに、最後の最後 、受験の直前に、恥ずかしながら大失恋とも重なり、私ときたら、ああ、このまま音楽の道に進んでも、私の力では、自立して音楽で生きていくことは本当に 難しい・・・という現実に、不安ではちきれそうになって、やめてしまったのです。数ある人生の中の失敗のうち、最大級の失敗。大学4年の冬、突然、就職し なければ・・となりました。

新卒として就職活動するには、3年生の秋から始めなければならないご時世、新卒でなければ試験も受けさせても らえない会社ばかり。秋採用にも間に合わず。そして当時も、今ほどではないけれど、就職氷河期・・・・。でも、なんとかしないと、というわけで、東京だけ でなく、新潟や宇都宮や、いろいろなところまで新幹線で行ってまでも就職試験を受けました。でも、試験を開催している会社もほとんどなく、必ず聞かれる、 なぜ4年の冬まで就職活動していなかったのですか?という質問にもうまく答えられず・・・

留学して、帰ってきた時期が4年の後半だったため、就職活動の時期を逃してしまった、という学生たちも、私のように困っていました。もちろん、第二新卒、といって、枠を広げて、こういう学生にも門戸を広げてくれている企業もあったけれど・・・。

最終的に、やっぱり、ちゃんと新卒として就職活動したい、そうでなければ恐怖なほど4年生の卒業間近な学生には、就職試験の受験先もありませんでした。そこで、就職浪人を決意。わざと単位を落として、5年生になりました。すると、就職の受験先は一気にたくさんに。

ひとつ下の学年のみんなと一緒に、秋はマスコミから始まって、手当たりしだい受験してみました。でも、正直言って、何がしたいか不明でした。でもとにかく、自立して働きたい、という思いでいっぱい、そして、就職試験の受験先があるというだけで嬉しかったです。

たくさんの企業のエントリーシートの提出期限は、重なって、過密スケジュール。とにかく、色々受けてみました。

で も、必ず、どの企業でも、なぜ、留年したんですか?と聞かれ、理由を話すと、たとえば日本の某銀行からは、最終面接で、"あなたのように、人と違うことに チャレンジして5年間大学にいたような方は、枠からはみだすというか、マネージしにくいと思うので、残念ながら・・・"と言われたり、女子であなたの大学 枠は、もう埋まってしまいましたよ、と言われたり。 大学枠というものがあったんだ、と驚き、私には腑に落ちませんでした。女子で、その大学かあ・・・まずは、国立大の男子、その次は私大の男子、その次は国 立大の女子、そして最後に私立大の女子という順番で採用するから、まあ、君は難しいだろうねえ・・と言われたことも。銀行とかだと、仕方ないのかもしれな いけれど・・・・

そんななか、唯一、なぜ留年したの?と聞かなかった企業、それが、デンマークの海運会社でした。たまたま、ほかの企業 のセミナーで、隣に座った男の子が、この企業、おもしろそうな んだよ・・と教えてくれたのでした。名前も聞いたことのない会社、でも、デンマークでは知られた企業だと後から知りましたが、そのときは、聞いたことない しなあ・・なんて思った私。でも、世界中の国から、300名近く採用して、半年に1度デンマークで研修制度を2年間受け、試験に合格すれば、その後2年 間、海外勤務できる・・・(そのかわり、試験に落ちたら、クビ・・・という制度だったのですが・・)なんて、とても面白そうな研修制度のある会社だったの です。デンマーク人の日本支社社長さんとの面接の後、緊張しすぎていたためうまく話せず、絶対落ちたと思って、ぽろぽろ泣けてきた、帰り道。でも、なぜか 合格でした。

でも、なんというか、冒険心のなかった私。ほかに、ただひとつ受かった日本の企業とも迷いに迷いました。名前になじみのある 日本企業のほうが安心な気がする・・・なんて思ったり。でも、手当たり次第、社会人の先輩やサラリーマンの人に、進路を相談すると、みんな、ううう・・ ん、そのデンマークの会社、よく知らないけれど、おもしろそうだよ、と言います。最後には、叔父がきちんとその会社のことを調べてくれて、しっかりした会 社だよ、と教えてくれ、また兄の、"日本のその企業の中で、もしかして学閥とか派閥とかあったりするのより、もっと自由なところがおもしろいよ・・"とい う一言にも背中を押され、デンマークの会社に行くことに決めたのでした。もちろん、いろいろな企業が日本にはあって、私が受けた会社がたまたまそういう体質のところが多かったともいえます。世間知らずで、どんな企業が自分にあうか、分からないままやみくもに就職活動をしていたのでした・・。

そ のときも思ったことですが、今思ってみても、拾ってくれてつくづく感謝の気持ちです。 もうかれこれ7年ほど前だから、いまは学生たちの就職活動はどんなふうか分からないところもたくさんあるけれど、私なりに疑問に思うことはたくさんありま した。そんなところが、枠からはみだしていてだめだ・・・と言われる理由でもあったのだろうけれど・・。

それがデンマークと私を結び付けて くれた大きなきっかけでした。ちなみに、偶然、その会社を受けたとき、デンマーク料理のレストランでバイトしていました。なぜかデンマークに呼ばれていた みたい・・・!?そのレストランは、大失恋して落ち込んでいた私をいっぱい励ましてくれた、大学の仲良しの友人が、オリーブという雑誌に載っていたのを見 て、めぐっぺ、一緒に行こうよ・・!と誘ってくれたところだったのです。すごく素敵なカフェ・レストランでした。ちょうどバイト先を探していた私、憧れて 応募して、そこでウェイトレスとして働くことになったのでした。

そんなわけで、ヤコブとも出会い、ぐーちゃんとも会えたし、ほぼ6年の 会社勤め、2年間のデンマーク駐在の後、その間に大好きになった北欧の雑貨や手作りのものを紹介するモアモアのお店も開くことが出来て・・・・そのときに は想像もしていませんでした。いやあ、人生って何があるか分からないものですね・・・映画、フォレスト・ガンプで、お母さんが、人生はチョコレートの箱み たいなものよ、あけてみるまで何が入っているか分からない・・・と確か言っていたと思いますが、本当に、そうだなあと思いました。八方塞がりだと思ってい ても、どこかに出口はあるんだなあとも思いました。

拾ってくれた運命の神さま?にお礼を言いたい気持ちです。失敗してしまっても、かえっていいこともたくさんあるんだなあ・・、と思いました。

上の写真は、その会社の同僚たちと、デンマークでの寒かった(笑)けれど楽しかったビーチバレー大会のときのものと、コペンハーゲンでの通勤の道です。

そしてこの写真は、コペンハーゲンの、Sortedamssøen ソルテダムス 池・・この池のそばのベンチに座って、お茶を飲んだりするのが、好きでした。ヤコブが航海中も、ここにひとりで散歩に行って、人々を眺めたりするのが楽しみでした。

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