振り返ってみて


昨日TVで、 FENDIのショーの舞台裏ドキュメンタリーを見ました。カール・ラガーフェルドと共に最後の数分まで縫製するイタリア人のおばさんたちがすごく素敵でした。みんな普通の地味なおばちゃまなのだけど明るくて強くて働き者でチャーミング。ミラノの工房からパリに向かう電車の中でまで必死にちくちく作業。FENDIの ような大きな老舗ブランドのショーでも、裏側は、本当にパニックといえるほどの忙しさの中で、地道なスタッフの、地味な工房での、汗と涙のにじむような地味な作業に支えられていて、最後の数秒まで走り回って完成させられるところに、なんだか勝手にとっても励まされてしまいました。そんなパニックぶりは、もう何十年も毎回そうなん だ、と年取ったFENDIのスタッフは額の汗をぬぐってちょっと笑いながら話していました。お針子のおばさんたちは、ショーがおわると泣いていました。美しい仕事の下には地味で大きな努力があるんだなあと思いました。

そこで、勝手に励まされた私は、
小さな小さな店であるモアモアの舞台裏を掲載する勇気?が勝手にもてました。
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デンマークにやって来て、いつのまにか4年がたちました。モアモアを開いて2年。少し、立ち止まって、振り返ってみました。

2006 - 2008 年: 
Copenhagen コペンハーゲンで、デンマークで最も大きいマンモス会社である海運会社に、日本支社からの駐在員として勤める。以前より付き合っていたヤコブと結婚。結婚式の1週間後、ヤコ ブは航海研修で4ヶ月留守、2週間家、という勤務。
私は、私と同じように駐在員として勤める、シンガポールやメキシコから来た同僚、同期の友人と共に、お互いの家で映画を見たり、ご飯を作ったりしました。 自国から出て、一人で暮らし、働く大変さも共有し、大切な友達になれました。

デンマークに来て、手作りのもの、子どものためのものの美しさ、可愛らしさに驚き、魅せられ、昔から絵本のような世界や雑貨が大好きだったこともあり、どんどんひきつけられるようになりました。会社帰りに、大好きな雑貨やさんや子ども服屋さんへ、閉店時間(デンマークでは夕方17時半にはみんな閉店します)にまにあうよう急いで走って通いつめたりしていました。だんだんに、その時間が一番の楽しみになってきました。

2008年:
駐在員は2年で日本支社に帰る契約だったけれど、デンマークに住み続けるため、デンマーク本社社員に切り替えました。そのとき、世界不況のあおりで、会社 に大きなリストラの嵐が吹き荒れ、私の所属していた、マーケティングチームごと消滅。私の上司たちを含めてたくさんの人が退社を余儀なくされてしまいました。その頃、私の妊娠 が発覚し、産休が取れるかも危うく、大きなストレスでしたが、最終的には、無事に産休を取れることになり、ほっとしました。

2008年5月:
出産2ヶ月前に、コペンハーゲンから片道2時間半の、誰も知り合いのいない Svendborg スヴェンドボーという町に引越さなくてはならなくなりました。それは、夫が航海士資格取得するまであと1年、その街にある学校に通う必要があったためです。また、コペンハーゲンで住んでいたアパートは、駐在員のための会社のアパートであり、駐在員契約が切れて本社社員になった私は急遽、出産3ヶ月前にして引っ越さなければならなくなりました。そのタイミングの悪さは、産休が取れるか分かるまで待たなければならなかったためです。でも、産休
(デン マークでは産休は臨月からスタート)までの 2ヶ月間だけ借りられるいいアパートが見つからず、結局、産休の取れる臨月まで、往復5時間通勤を余儀なくされました。このとき、かなり体に負担がかかってしまいました。

また、引越し先は、限られた時間でヤコブが決め、私は一度下見したのですが、その地域はデンマークでも3つの指に入るゲットーだということ。でも、学校に近く、森が目の前にあり、コペンハーゲンでともに暮らしていた猫2匹にとっても安心なところ、というのがヤコブがそこに決めた理由でした。治安の悪さを心配した私は反対したのですが、新しい場所を見つけようとしたときに、夫の父が脳溢血
で倒れ、引越し先を新たに探すどころではなくなりました。一人息子である夫は、Svendborg スヴェンドボーから3時間 離れた実家に滞在、看病に奔走。義母も血圧が上がり、2人とも危ない状態になっ てしまいました。夫は同時に進級試験もこなさなければならず、2つの街を往復し、とても大変でした。結局、義父は長い危篤状態の後、私の出産2週間前に死 去してしまいました。引越し先は結局、かえることは時間的にも無理でした。夫の学校卒業までだけの短期間住むのだから、と諦めましたが、実際に住んでみると、想像以上に、近所に住む人々(大多数が、デンマークに移民としてやってきた、東欧コソボやセルビア、中近東、など難民として受け入れられた人たち)が問題を抱えていることが分かり、私たちにも助けを求めに来たりと、大変でした。

2008年6月:
私は臨月に。
やっと産休に入りました。見知らぬ街なので、とにかく母親学級に通い、ママ友も作りたいと思いましたが、なんと デンマーク中の看護師のストライキが長期間続き、母親学級閉鎖。新しい街でママ友を作る最初の機会を逃してしまいました。

2008年7月:
今までの長距離通勤や、夫の両親が倒れたことなどで負担がかかったのか、おそらくストレスで、息子がおなかの中で育っていないと診断されました。そこで急遽、陣痛促進剤で出産することに。24時間の陣痛後、最後は私の意識も朦朧とし、緊急帝王切開になりました。疲れきって、産声もあげられなかった息子は、 心臓マッサージされながら、医者と看護師計4人に付き添われ、もっと大きい病院へ緊急搬送されてしまい、私が息子に会えたのは翌日でした。
1週間後、退院。(デンマークでは自然分娩の場合、なんと数時間後に退院する人も多く、帝王切開でも1週間未満の退院が多いです。)デンマークの病院食は 喉を通らず、退院しても、夫と2人なので、つい私が動かなくてはならないことも多く、無理しなければならなかった状況でした。このとき、里帰り出産というものにあこがれました・・笑
ちなみにデンマークでは、里帰り出産という概念もないほど。基本的にカップルで協力してはじめての育児をする場合がほとんどのようです。

数日後、私は産褥熱になり、痛みで起き上がれなくなり、また入院。帝王切開の傷口に細菌感染していることが分かり、手術するが、なかなか治らず、結局 1ヶ月入院し、なんと10回も、開腹手術しました。毎回、全身麻酔だったので、その時だけは痛みと初めての育児の緊張感や疲れから解放されるのがせめても の慰めだったほど・・デンマークの病院食が口にあわず、辛かった日々。おかゆがほしい、というと、バターとシナモンの浮かんだライスプディングが出てき て、梅干のおかゆが恋しかったです。

退院後、日本から、私の母親代わりのような存在である、伯母が助けにきて、3週間ほど滞在してくれて、私はようやく元気になることが出来ました。

傷口は、度重なる手術で、縫い合わせることが最早出来ず、自然治癒を待つため、ずっと巨大な絆創膏をつけていましたが、傷口が開いたままだったので、とて も痛い日々でした。授乳のために起き上がるたび、心の中で、わがこのために!と掛け声をかけないと起き上がれませんでした・・。いやはや、えらいめにあいま した・・。

海外で、かつ完全な新天地に出産直前に引越し、周りに頼れる人は夫以外いないなか、夫も親の看病でいない日々が続いたため、かなり無理が続いた出産前だったためだ と思われます。また、デンマークでは、抗生物質をなるべく使用しないようにされているため、帝王切開の手術時、日本では必ず抗生物質を使用する場でも、使 用されなかったため、弱っていた私はあえなく細菌感染したようです。

そんななか、近所に住む飼い主が世話をしないため、ごみをあさっていた、病気だらけの半ノラ猫、ブリーちゃんが、我が家へ勝手に入居。飼い猫と知らず、獣 医さんに連れて行き、手当て、保護しました。その後、もと飼い主さんが、世話をしきれなかったといい、見捨てるわけにはいかないと、正式に譲り受けました。

またほかの 近所の人が、なんと妊娠中の猫を捨てて引越しました。我が家のすぐ 前の茂みで出産した母猫と子猫ごと保護し、新しい飼い主を必死で探しましたが、2ヶ月間見つかりませんでした。私たち以外に世話してくれるような人が見つ からず、その間、もともと我が家にいた2匹の猫に、ブリー猫に、家なし母猫に子猫、10匹もの猫を保護。これはまた本当に大変でしたが、私たち以外の誰 が、猫たちを救えただろうという状況でした。無事に猫たちが新しい飼い主のもとに巣立ち、今は、我が家には3匹の猫が平和に暮らしています。

問題を抱えた近所の人たちは、動物の世話をしきれずにいる人も多かったのです。
大変だったけれど、ブリーちゃんという猫を救って、昔は病気だらけのみすぼらしい猫だったのに、今我が家で平和に幸せそうにつやつやとした毛並みで暮らしている姿をみると、私はこのために、ゲットーに住んだのかな、だからよかったのかな、と思います。

2008 年夏:
産休の後、コペンハーゲンの海運会社へ復帰しようと考えるが、夫の航海士学校のカリキュラム変更により、卒業が半年から1年伸びることに。航海士兼エンジ ニアの資格取得に今まで5年間も勉強していた夫だったので、最後の1年半、支えようと、悩みながらも決意しました。子育てしながらコペンハーゲンに往復5 時間の通勤をするのは無理と判断、ほかの就職先を考えました。しかし、田舎街なので、まだデンマーク語の話せない私が働けるような国際企業などは見つかり ませんでした。また、デンマークでは、共稼ぎがほとんどで、専業主婦はほぼ皆無です。私も将来的に必ず、仕事は続けなくてはいけないのは目に見えていまし た。そこで、悩んだ末、今まで夢であったお店を開くことにしたのです。デンマークで出会った、美しくあったかい手作りのものたちを日本に紹介したいと思いました。開店資金は、今まで私が海運会社で働いていたときのお給料を使いました。

2009 年1月10日: モアモア開店!

息子の保育園は空きがなく、息子を背負いながら仕事。育児も仕事も必死の毎日でした。

春になって、無事、保育園 デ ビューし、ほっとしました。でも、慣らし保育に1ヶ月もかかり、その間毎日のように午前中でお迎えに行かねばならず、また、この頃、息子が離乳食を全く食 べてくれず、全部床に投げられてしまう日々。かといって食べるようにならないと、保育園で預かってくれないので、大変でした。

とてもいい保育園で、保育士さんたちも子どもたちをよく守り、抱きしめてくれて、安心して預けられました。
でも、ゲットー地域にある保育園で、夜中に、アル中の人たちや問題を抱えた近所の人たちが保育園に入り込み、庭でたばこを吸って捨てたりビール瓶を捨てたりということはしょっちゅうで、毎朝、保育士さんたちが一生懸命拾っていました。
まだハイハイだったぐーちゃんがこの庭でハイハイして遊ぶこと、保育士さんたちが気をつけてくれているのは分かっていたけれど、母親の私には心配でもあり、ますます、この地域から引っ越さねばと思いました。

2009 年 夏:
ヤコブ無事、航海士兼エンジニア資格取得、学校卒業。
同時に1ヶ月の航海へ。3週間ずつ、航海・帰宅、というリズムで、二等航海士として勤務。陸にいる間は、全力でモアモアのために働き、2つの職業を掛け持 ちするハードな生活が始まりました。
店からは給料を取らず、ヤコブの航海士としての給料で生活し、出来るだけ会社を育てていくようにしていました。
私だけでは人手が足りないので、ヤコブの友人
・イエッペがフルタイムで参加しました。イエッペの住む街、オーデンセと、私たちの当時住んでいた街スヴェンドボーは、電車で30分の距離。ところが、なんと運悪くその単線電車が数ヶ月工事に入り、バスでしか通えなくなり、バスだと1時間半かかることに。イエッペの通勤距離の長さも問題になりました。

私は一人で育児と仕事を続け、友達のいるコペンハーゲンへ引っ越すことを夢見て頑張りました。また、もっと平安な気持ちで暮らせる、普通のデンマークの街、ゲットーでない場所に住みたいと切望していました。
でも、当 時、モアモアを手伝っていたヤコブの友人・イエッペはオーデンセに家を持っているため、引っ越せないということ、また、ヤコブが将来、船長を目指すためには、あと1年、航海士学校で、経営学を学ばなくてはならないため、その可能性を保留するため、通学圏内である、近場のオーデンセへ引越すことに。

2009 年9月:
オーデンセへ引越し、モアモアの事務所も持つことが出来ました。コペンハーゲンまでは、1時間半なので、とにかく少し近づけて嬉しかったです。
引越しは、ヤコブが3週間の航海から帰ってきた夜の次の日の朝。
私は、1歳の息子を抱え引越し作業。モアモアの店の大量の陶磁器の移動、息子の世話をしながらの引越しは本当に大変でした・・・。
また、引っ越して2週間後にはヤコブが 航海に出るため、それまでに新事務所を機能させるため、夜中まで工事したり、梱包場所を整備したりと働きづめの日々でした。

息 子の新しい街での 保育園 には、申請可能日から申請していたにもかかわらず、空きなし。
そこで保育ママに通えるよう申請。しかし、地域には保育ママも不足してお り、1ヶ月待ち。
息子をまた背負いながら、モアモアの店の仕事をしました。ヤコブは3週間ごとに海と陸を行き来しました。

やっと 息子の保育ママが決まるが、なんと1日行っただけで、1ヶ月以上病欠といわれてしまい、不安定な保育事情に左右されてしまう日々ながら、モアモアの店の仕事をこつこつしていました。

2009 年11月:
祖母が病気のため、私は日本へ息子と2人で里帰り。夫不在の3週間、一人で育児・仕事で疲れていたうえに、じっとしていられない小さな息子との長時間のフ ライトは体にこたえました。
無理がたたったのか、日本で私は体調を崩し、入院。帰国を1ヶ月伸ばすなくてはいけないことに。夫の航海スケジュールを見越して里帰りしていたため、私が日本にいる間 に、留守番のはずのヤコブは、また航海に行かなければなりませんでした。私の帰国の延期は、仕事にとっても、我が家で待つ猫たちの世話を誰がするかという 点でも、大変でした。

2010 年2月:
日本の大きなお店のオーナーさんに数ヶ月前から依頼を頂き、かねてより準備していた、北欧家具買い付け・収集仲介の仕事が実を結び、無事に40フィートの コンテナ1本に 北欧家具300点近くを詰め、日本へ送り出しました。

2010年5月:
だんだんに、リズムがつかめ、モアモアの店も徐々に育っていきました。
でも、 今まで走り抜けてきた日々、かつ出産直前から2つの街に引っ越し、忙しすぎた日々のため、友人がいなく、ヤコブも航海で留守が長いため、さみしさが募りました。時々、遠出してコペンハーゲ ンへ友人たちに会いに行っていましたが、息子を連れて行くのは大変だし、ヤコブが陸にいる間は仕事が山積みで預けられないしで数ヶ月に1度の割合。そこ で、日本大使館に連絡し、オーデンセの街に住む日本人会を紹介してもらいました。日本語でおしゃべりでき る、同じようにデンマークで根をはろうと頑張る友人たちが出来て、本当に嬉しかったです。

毎月半分以上の期間、一人で育児、会社運営す ることが 大変だった日々。保育ママも病欠気味で、息子は10人以上の代理保育ママを転々。早朝に、保育ママセンターから、今日はどこの保育ママに行ってくださいと 連 絡があり、地図を見ながら遠くまで歩く日々でした。

2010年10月:
私が1年の半分以上、家族も夫もいない状態で、育児することはとても大変で、体にも無理が出てきてしまっていたため、悩みながらも、ヤコブが航海士を辞め ることを決意しました。

北欧のデザイナーさんたちとのいい関係が築き上げられ、日本向け代理店をしてみてくれないかと声をかけてもらっていたこともあり、今後、代理店としてス タートするため、考えた末、ヤコブと一緒に会社を経営していくことを決意。

日本の 大きなお店のオーナーさんの、北欧家具買い付けアシスト第2回目。今回も無事に、40フィートのコンテナに300点ほどの家具を詰めて日本へ送り出すこと が出来ました。
息 子の保育ママ事情の不安定さをデンマークの役所に訴え続け、保育園に無事、 入れてもらえることになり、無事に入園。新しい保育園では、初日から、帰りたくないというほど、新しい小さな友達たちと元気に遊ぶ息子の姿をみて嬉しかったです。

モアモアの店の名前はそのままに、会社名 Scandinavian Connection スカンジナビアン・コネクションとして、北欧のブランドの代理店としてもスタート出来るよう準備も始めました。

私一人の育児・仕事ではなくなり、友人も出来、ようやく少しずつ落ち着いた生活を築き始めました。

2011年1月10日 モアモア2周 年!

今日、息子の通う保育園での面談がありました。息子が元気に陽気に、すくすく育っていることが本当に幸せなことだなあと思いました。

まとめ

なんとまあ、デンマークという国に来て以来、この4年間に3つもの街に住み、出産したり入院したり、起業したりで、 本当に全力で走り抜けた日々でした。外国暮らしに慣れるだけでも大変だったのに、たくさん引越さなければならず、そのつどゼロからスタートすることは 、やはり、本当にきついことも多かったです。自分で選んでデンマークに来て、自分で選んだ道を歩んできたのだけれど、どうしようもない状況や要素もたくさんあって、翻弄されながらも、でも、とにかく前を向いて歩もうと、小さな幸せを見つけながら進んできました。お店を開いて出会った美しいデンマークのものたちにふれられたこと、作り手の方と出会えたことは、その中で、私にとって大きな喜び、癒しであり、活力になりました。

本当は、ゆったり、お家で編み物したり、お菓子を作ったりするほんわかした女の人になりたいとずっと夢見ていたのだけど、現実は、力仕事もこなす、たくましい母ちゃんにならざるをえない状況に、なぜかなってしまいました・・・
頑張りやだね、といわれること もあるけれど、実際は、なんだか頑張らざるをえない状況になる人生なだけなようにも思います。笑 メリー・ゴーラウンドのような人生がよかったのに、 ジェット・コースターな人生です。
また、私の母は私が12歳のときに他界し、夫の母は、具合がずっと思わしくなく、私たちはなかなか、出産・子育てにおいて、近くにいるじいじ、ばあばに頼れるような恵まれた境遇ではありませんでした。

そして、夫が航海士の卵だったことは、想像以上に大変 なことで した。夫が航海士になることを決意したのは、私と出会う何年も前。航海士になるには、6年もの専門課程を修了しなければならず、私と結婚したときの夫は、 あともう1歩で卒業、というところでした。航海士の家族の生活は大変であることを想定し、今までの勉強を中断して、普通に就職しようと夫も悩んだ時期もあ りました。でも、5年も勉強したことを泡にするのはやはり出来ないと考えたのです。 しかしながら、ひとたび航海士になってしまえば、妻の出産に立ち会えるかも分からない職業であるため、家族がそばにいない私たちは、むしろ、航海士学校卒 業前に、出産し、1年後私は復職、夫は航海・・という計画をちゃんとしていたのでした。でも、計画どおりにならなかったのは、人生とはそういうものなのだ ろうと思います。その思いがけないことは、大変だったけど、新しい出会いや経験、思いがけず、大好きなデンマークの手作りのものや雑貨にたずさわる店を開くという私の夢をかなえてくれました。

また、最初に2年間住んだコペン ハーゲンで、ああ、やっと、落ち着いて、友達も出来てきたし、慣れてきた・・と思った矢先に、新しい田舎街、その中でも街から遠い場所、治安の悪い地域に、自分の意思に反して住まなくてはなら ず、また、半分以上の期間、一人きりで育児をしたことは、とても大変なことでした。普段はよくても、自分が病気になったとき、休めずにいるのがつらかった です。
母国であるデンマークに住むデンマーク人であっても、航海士の妻の人は、本当に大変!とみんな口をそろえていいます。また、最初の2年間は、友達を作る 余裕すらなかった日々でした。数えてみると、コペンハーゲンから引っ越してから1年と8ヶ月の間、近くには家族どころか友達も誰もいなかったの でした。

でも、東京、コペ ンハーゲンのあたたかい優しい友人のメッセージ、時々会えたときのおしゃべり、お客様からのメッセージに助けられ、励まされ、なんとか進んでこれたんだと 思います。
そ して、去年、オーデンセの街で出会った日本人の友人たちのあたたかな手、言葉にも、今、本当に助けられて元気をもらっています。本当に、本当にありがと う・・・・

日本 で、里帰り出産して、実家のお父さん・お母さんに助けてもらって、自分が働かなければならないという心配を抱えずに、出産・子育てできる人をうらやましく 思ったことも実は正直あります。共稼ぎを基本として社会のできているデンマークでは、男女平等である素晴らしさと同時に、女性にも強さが求められます。このことは、男女平等でない面のまだ大きい日本からやってきた私には、外から見ると、素晴らしいと思うことでしたが、実際に住んでみると、女性だから、男性に養ってもらいたいということが許されず、自分も強くならなくてはならないという面で、大変だと実感しました。

でも、色々大変なことがあったけれど、元気な子が生まれてきてくれたこと、そのことだけで、本当に奇跡のようでなんと幸せなことなんだろう、と思います。母親がいなかった私は、さみしかったからか、ずっと、自分が母親になりたいと願ってきました。自分なりに悩んだことも多かった人生だけど、これが、私にとって、私が人生からもらえたいちばんの幸せなんだ と思います。そして、友達に恵まれたこと・・・・友達それぞれ、いろいろな境遇があって、人の運命はなんて思い通りにならないんだろうと思うこともあります。でも、それぞれの境遇をそれぞれ抱えながらも、気持ちをわかり合ったり思いやったりおしゃべりできることが本当に幸せなことだと思います。ありがとう・・ 
なかなかメールのお返事が遅くてできない私なのが申し訳ないけれど、メッセージをもらったとき、嬉しくて、大切によんでいます。そして、もらった言葉は大切な芽やお花のように、心の中で育てています。
大切で素敵な友達Nちゃんから最近もらった言葉は、運命をうけいれること・・この言葉は、私にとってとてもあたたかな言葉でした。どうしようもないこともあって、うけいれるのは悲しくて難しいけれど、そのなかででもどんなふうに生きられるのかということはその人次第なんだと気づかせてもらったからです。

そして、店、会社が、たくさんの人に支えて頂けて、育って行き、私の夢だった、北欧の美しい手作りのものを紹介できる仕事が出来ることは、大変なときもあっても、本当に幸せなことだと思います。

これからは、1歩1歩、ときにはゆっくりして、進んでいけたらと願っていま す。

なんだか何日もかけて少しずつ書いていたら、ずっしりとながーい振り返りになってしまいました。照。
私は、いつまでたっても可愛いものが好きな、友達に甘えてしまうところが変わらない人で、要領よく生きられないところがだめだなあと思うけれど、これからは私も誰かの助けになれるような人、そしてゆとりのある人になりたいです。

そして、大事に育ててきたモアモア、これからも、幸せのかけら、小さな宝ものを運んでいけるようなお店にしたいと願っています。


また、子どもが子どもでいることが出来る国、世界でいちばん幸せな国といわれるデンマークから学べるところ・・今までの、アメリカや日本の価値観と違った価値観で発展してきたこの国のよいところ、学べるところを、日本とデンマークの両方に暮らした私なりの目線で紹介していけたらと願っています。私の大好きな国、日本も幸せな国にもっとなったらなと、私なりに願っているからです。

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